我輩は猫である。
名前はソラ(空)と呼ばれている。
どこで生まれたかといえば茨城という場所らしいが、我輩にはとんと記憶もなく、東京は下町で生まれ育ったチャキチャキの江戸っ子だと自負している。
火事と喧嘩は江戸の華なんていわれているが、我輩は争いごとなどとんと好きになれない性格である。たまに相方のふうちゃん(風ちゃん)と遊んでいたらいつのまにやら喧嘩になってシャーシャー言い合うときもあるが、普段はきわめて温厚な紳士として振舞っている。
呑気とみえる人々も、こころの底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。
(引用元:夏目漱石「我輩は猫である」)
家主のパパとはかれこれ18年の付き合いになるが、我が家もいつのまにか大家族になったと最近思う。
これまでは、パパ、ふうちゃん、そして我輩の三人で慎ましく暮らしていたのだが、数年前にママがきて、そして今年にはいるとまた新たに訳のわからない生き物まで家族に加わった。
いまや五人家族だ。
甲斐性のないパパに養っていけるのか、我輩もちと不安になる大所帯である。
なんせ我輩は食いしん坊なだけに、自分の食い扶持だけは確保したいのである。
そんなパパのこころの底をたたいてみると、いまはどんな音がするのか、我輩はすこしだけ興味がある。
なにせ滅多に笑わなかったパパがここ最近よく笑っているのであるからして、きっと悲しみの音色ではないのでは…と推理しているのである。
ところで、ここ最近はいってきた、あの訳のわからない生き物はいったいなんなのか。
ふうちゃんと時々はなしあう夜がある。
なんせ、あの生き物、ママからおっぱいをもらっているのである。
我輩もふうちゃんもパパのお腹をこの18年休むことなくフミフミしつづけてももらえなかったおっぱいをもらっているのである。これは我らふたりにとって、非常に由々しき事態としかいいようがない。
ヒエラルキーの問題であるからだ。
人間は角があると世の中転がっていくのが骨が折れて損だよ。
(引用元:夏目漱石「我輩は猫である」)
半年ほどあの生き物と一緒に暮らしてわかったのは、我輩たちに危害をくわえないということだ。これは非常に重要なことである。
ときに大声で奇声をあげたり泣き叫んだりして我輩たちを驚かせたりするが、基本は寝っ転がったまま手足をバタバタさせるだけ。
最近なんとか寝返りを覚えて、我輩の尻尾をつかもうとしているときもあるが、我輩は華麗な身のこなしでそれをすり抜ける。
そもそも我輩クラスになると、玄関先でピンポンと音が鳴るたびにパパの部屋のベッドの下まで猛ダッシュする運動能力を隠し持っているのだからあまり恐れてもいない。あの新しい生き物はまだそこまでの能力はない故、いざとなっても楽勝で逃げ切れるはずである。
しかしながら不可思議なのが、我輩のこころの中に、あの生き物を愛おしいと思う感情が芽生え始めたことだ。
ふうちゃんとも話したが、ふうちゃんもそうだという。
ふうちゃんいわく、「あの生き物はなんか甘い匂いがする」というので、我輩もたまに近寄っては匂いをかいでみたりするのだが、たしかに甘い匂いがする。
パパが我輩たちを家族に迎えてくれるはるか昔に嗅いだような、こころの奥底がなんだかむずがゆくなる香り。これが望郷の香りというものなのだろうか。
近寄っては尻尾をそっとくっつけて、その匂いを我輩の身にまとってみる。
やはりなぜか心地よい。
甘い香りのその奥に、パパとママの匂いもすこしだけ混じり合っている。
その匂いはふうちゃんもそうだし、おそらくは我輩もまとっている。
例えるならば、一族の匂い。
そうならば「もしかしたらあの生き物は、あたいたちの弟なのかもしれないよ」とふうちゃんに言われたことにも一理あると思うのである。
きっと、あいつもパパのお尻から生まれたんだ。
こうやって我輩たちは、あの生き物を徐々に弟としてみるようになった。
弟ならば、我輩たちがなんとか守らねばならない。
パパもママも世間の怖さってものをあまり知らない世間しらずだから尚更だ。
我輩ははじめにも言ったが喧嘩なぞ大嫌いな紳士なわけだが、これからは弟を守る為に、すこしは頑張っていこうかと思っている。
それにしてもあの生き物。
ものすごい速さででかくなっておる。
すでに図体だけは我輩よりもでかくなっておるし、このままいくともうすぐ動き出すのやもしれぬ。
さすれば、そのうち我輩が兄として、狩りの仕方も教えてやらねばなるまい。
かくして我輩はそんな日が来ることを楽しみにしながら、今日も昼寝をすることにしたのである。
なんせ、我輩は猫である。
寝る子とかいて、ネコである。
(おしまい)
(ふうちゃんの赤ちゃん観察記は↓コチラです。)
(赤ちゃんと猫のリアルな距離感を書いた記事は↓コチラです。)