山田詠美の「ぼくは勉強ができない」を久々に読み返した。
先日、ツイッターで学生さんとやり取りしている時に「あー、久々に秀美に会いたいな」と思ったのが再読のきっかけだ。
主人公の秀美は男子高校生だけど、名前からもわかるように作者、山田詠美の視点から世の中を見ている。
それは非常に女性的な視座。
そんな大人の女に見透かされる陶酔感が、青春小説のはずなのに全体に漂う。
「大人になるとは、進歩することよりも、むしろ進歩させるべきでない領域を知ることだ」と、あとがきで筆者は言う。
学生のなりたい職業のトップに公務員が立つこの国。
そんな社会に「カッコ良くないと、全て無意味だよ」と啖呵をきる。
男では言いにくい。
嫉妬といえば女性のものと思われる風潮があるが、男の他者の美や豊かさに対する嫉妬はそれと同等以上にどす黒く汚いものがある。だから男はなかなかこういうことを言い切れないんだ。
筆者が、女だから言えるのか。
というか山田詠美のこれまで付き合ってきた男性観がそれを言わせるのは別の作品を読むとわかる。
秀美の母、仁子の言動もこれまたかっこいい。
「過去は、どんな内容にせよ、笑うことができるのよ。自分の現在は、常に未来のためのものだ」
こんなセリフ、どんだけ苦労や悲しみを経験してきたら素で言えるんだよ。
この歳になっても素直にうなづくしかないじゃないか。
そしてここまでくると、無性に主人公の秀美にライバル心というか嫉妬の感情が湧く。
こいつのように迎合せずとも生きていけると胸を張れる余裕と自信が、果たしていまの自分にあるのかと自問する。
ま、そんな感じで枠の中で小さくなりそうな自分の耳元に「ほんとにそんなんでいいの?」と甘噛みしてくる短編集だ。
その囁きの残響が耳の奥からなかなか離れない。
それは厨二病とはちょっと違う、もっとポジティブにひとを励ましてくる精神的軸足。
そしてその圧倒的感性の世界に、時間を忘れて陶酔できる。
山田詠美を未読の方はぜひ読んでみてほしい。
大人が忘れかけた反骨精神を表現に昇華するにはどうしたらよいかを、この作品は教えてくれる。